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同性愛は異常か

同性愛は異常生物だ、というツイートをした市議がいた。今回はこれについて書きたい。ブログのテーマと関係なくて申し訳ない、でもネット上の気になった情報をまとめるのが本来のブログの使い方だとも聞くので…。

まあ、異性愛を正常とすれば、同性愛はその反対で異常、ってことになるのかも知れない。

ただ、例のツイッター市議の異常・正常論の理屈は間違っている。間違った理屈でもって、異常正常を語るのは間違っているし、それでもって自分を正常に、相手を異常に置くのはもはや暴力である。正、不正という言葉にはそれほどの強い力がある。

彼は同性愛者を「生物の根底を変える異常動物」と言った。

でもさ、言わせて欲しい。人間の性に関することは、動物の性から見て正常なことの方が珍しいんじゃないのか?

例えば、人間は自分の意思で子を持たないことを選択することのある動物だ。避妊して性行為をすることもある。あるいは自慰もする。どれも動物的なくくりで見ると珍しいことだ。

たまにこういう奴がいる。同性愛は子孫繁栄に与しない、と。特に全体主義者、個々人の幸福は蔑ろにしてでも国家を強くするべきだという論調の者によく見られる理屈だ。たぶん彼の言いたいこともそういうことだろう。その理屈はその理屈で結構だ、しかし、そうだったら自らの意思で子を持たないことを選択する者、避妊、自慰も等しく糾弾するべきなのでは?あるいは病などで子供が作れない体になってしまう人もいるだろう。そういう人はどうすればいいのか?性が生物の根底なら、これだって生物の根底を変えるものだ。

もうひとつ言ってしまえば、結婚、特に一夫一婦制も動物的に見れば不健全な行為だと思う。色々な人で交わった方が、遺伝的には多様性が出て生存に有利なのではないか。大抵の生物は皆そうしている。鳥の中にはつがいを作るものがあるが、生涯に渡った一夫一婦制というわけではないし、彼らには貞操の義務のようなものはない。つがいはあくまで子育てに都合がいいから、ということのようで、実際にDNAを調べてみると育てられている雛は必ずしもつがいの子というわけでもないと聞く。DNA的な多様性がないと、何かの疫病なんかが流行った時、あっという間に全滅してしまう。それもまた彼の言う破滅ではないのか。

だから、僕は動物的な視点から人間の同性愛を異常と呼ぶのは非常にダブルスタンダード・恣意的だと思う。おそらく本人も論理の破綻はなんとなくわかっているだろう、わかっていなければ馬鹿だ。それを無理やりゴリ押しで正当化し、相手に異常者のレッテルを貼るのは、卑怯だしさっきも言ったとおり暴力的だ。



僕が思うのは、あなたが異性愛者なら同性愛者の気持ちもわかるだろう、ってことだ。あなたがゲイになれ、と言われてもそれは無理だろう。僕にもたぶん無理だ、少なくとも女性を愛することを捨てることはできない。

同性愛宣伝がいけないことだ、という奴がいる。つまり、人を同性愛に引きずり込むような、目覚めさせるような行為をするべきではないと。ロシアとかがそういう政策をとっていた。ツイッター市議のツイートにもメディアがそれを報じるべきではない、というような言葉があったので彼にそういう意図もあったと思う。しかし、ではそういう宣伝に接したらあなたは同性愛者になるのか?ならないだろう?つまりならない人はならないのだ。だからそれは心配するべきことではない。

確かに同性愛者の話を聞くと大抵、これまでの人生の途中あるところで自分が同性愛者であると気づいた、なんて言われる。でもそれは、異性愛者から同性愛者へと転換したという話ではない。異性に対する恋愛感情・性的感情を覚えず、異性愛を標準とする世間一般に自分がゲイと認識する前から違和感を覚えていたという場合がほとんどだ。つまり、無意識レベルですでに同性愛者である人が、自身の性指向に気づくかどうか、だ。

気づかせないのが正しいのか。僕はそうは思わない。自分の性に違和感を覚えながら、でもゲイという物事の存在を知らずあるいはゲイが認められない世界で、世間一般がそうするように異性と結婚でもしてしまったとしようか。それは悲劇でしかない。ゲイの本人は置いておいても、引き合わされた異性愛者がたまったもんじゃないだろう。実は愛していないってんだから。つまり、ゲイがゲイであると認められる社会は、異性愛者の幸せにも繋がる。だからメディアでゲイが取りあげられるのは何も僕は問題だと思わない。自分の性に悩むゲイの人が、ゲイというものの存在を認識し、自分はそうなんだ、それでいいんだと気づく、そのきっかけをメディアがもたらしているのだ。大いに結構じゃないか。



なんていうのかな、さっき全体主義の理屈はそれはそれで結構とは言ったけれど。俺が思うに、だけれど、全体主義ってのは原則と例外、目的と手段を取り違えていると思う。僕が思うに、共同体は大事だ。よく個人主義者は共同体を蔑ろにするものだと思われがちだが、それは誤解だ。共同体を蔑ろにする個人主義者なんてゴルゴ13くらいのものだ。人間は皆共同体に寄り添って生きている。でもその共同体は何のためにあるのか。というか、人間は何が目的で共同体を形成するのか。それは、個々人がよりよく生きるためではないのか?

自己犠牲というものもあるが、自己犠牲は目的ではないはず。自己犠牲は、共同体に所属する他の誰かを幸せにするための手段であるはずだ。それに、他者から、共同体からそれを強要された時点でそれは「自己」犠牲ではない。単なる犠牲である。自己犠牲というのは個人主義においてのみ存在する。

それはともかく、人間は「こうあるべき」というものがあって人間になったわけじゃないと思う。これは性に限ったことはではない。人間社会は不合理と非生産性、そしてそれの再考察の積み重ねで成り立っている。少なくとも動物的行動原理とは違うところで成り立っているところがたくさんある。「吾輩は猫である」ではないが、動物から見れば人間そのものが異常だ。人間は、こうあるべきだとする完璧な模範を持っていない。持っていないからこそここまでの世界を作り上げられたと僕は思う。それをパターナリスティックに上から決めつけ、何かを異常、正常と決めつけるのは間違っている。それぞれが、自分が正しいと思う方向に進めばいい。それが道になると思う。同性愛者は同性愛者であればいいし、異性愛者は異性愛者であればいいと思う。


補足

「正常、異常って何ですか」 海老名市議の差別的ツイッターに同性愛者|カナロコ|神奈川新聞ニュース
このような記事を見つけた。この記事の、ここが気になった。

「同性愛を異常と思う自分は、差別主義者と思われる」という恐怖を覚える

僕はここで同性愛差別に対する反対を表明したけれど、それは「同性愛を異常と思う」人を差別主義者だとレッテルを貼る意図ではない (と同時に、そう思われかねないポイントを修正) 。僕が思うに、だけれど、例えば多くの人が性的にクリティカルなことを突かれれば多少なりとも嫌悪感を催すように、異性愛者が同性愛に嫌悪感を覚えることはいけないことではないと思う。ただ、同性愛者は自分がそうなりたくてそうなったのではない。我々が異性を好きになることに理由があるだろうか。当人に咎のないことを、声高に非難するべきではない。それは肌の色みたいなもので、典型的な差別そのものだ。

それを相手を貶める意図で無茶な理論武装で正当化するのは更に間違っていると思う。差別を正当化する無茶な理論武装っていうのは今までも山のようにあった、やれ女は天地創造の6日間に作られたものでないだの、アダムとイブは白人であり黒人は人ではないだの。こういうのを幸運にも歴史から学べる我々は繰り返すべきじゃない。歴史は野蛮な動物には学べないことだが、我々は文明人だ。

嫌悪感をもつものを受け入れるのは難しいかも知れない。しかし、受け入れると言ってもあなたに同性愛者になれだの、あるいはその性の相手をしろと言うわけではない。我々が異性とは言ってもやりたくない相手とやらなくていいのと同じだ。だから、その存在をそのものを否定・非難するのは間違っていると思う。

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また小選挙区で選挙だよ…

また選挙ですね。

小選挙区制の問題について今まで何度か指摘し、俺はこれを廃止するべきだと主張してきました。

指摘した問題点を簡単にまとめますと、
・政党別の得票率と議席獲得率の乖離が激しすぎる。前回の選挙では政党別の得票率では自民43%に民主23%であるところ、議席獲得率は自民79%に民主9%となり、前々回では自民38.6%に民主47.4%の得票が自民21.3%に民主73.7%の議席に化けた。
・死票が多すぎる。前回の選挙では国民の総有効票のうち53%が議席に反映されなかった。多数決の基本は過半数なら、過半数もの票を捨ててしまうのはどうなのか。
・投票先が限られてしまう。全ての選挙区で全ての党が候補者を立てられるわけではないので、多くの選挙区で事実上の選挙の制限になってしまう
・党内での派閥争いや政策論争に選挙が関与できない。選挙という国民の政治的意思決定とは関係のない有力議員の増長を招き、力の劣る議員は公認外しを恐れて自由な意見・政策を持てなくなる恐れも
・多数の議席を作出し安定政権が築かれるという当初言われていたメリットは、この二十年の日本を見れば、そのようなメリットは存在しなかったのは明らか。
・一強野党に政権与党の批判票が集中して政権交代も容易となるというメリットも、英国・米国の階級社会、激しい経済格差、政治宗教思想の対立など特殊な事情によって成り立っている可能性が高く、明らかに社会事情の異なる日本でそれが成立するか疑問。日本では小選挙区制によって政権への批判票を集め大躍進を遂げた多くの党は皆短期間で崩壊している。新進党、民主党、みんなの党、維新の会。これが日本のために良いこととは思えない。

詳しい話はこれまで書いた記事をご覧ください
MSフリーで行こう 小選挙区制の廃止を求める
MSフリーで行こう 一票の格差に違憲状態判決、しかし選挙得票と議席の格差は…
MSフリーで行こう 小選挙区制はやめた方がいいと思う

今回安倍政権が解散を選択したのは、支持率は下がっていても小選挙区制マジックによって今なら圧倒的多数の議席獲得が見込めると踏んでのことでしょう。もしそうならこれは小選挙区制の悪用です。死票を大量に出して選挙結果が歪むことを期待しての解散は、小選挙区制のデメリットの悪用であり国民に対する重大な背信だと思います。憤りを覚えます。

ちなみに憲法学の世界では、内閣には自由な衆議院の解散権がないと考える向きもあります。というのも、我が日本国憲法には自由な解散権があるとは直接的には書かれていないのです。解散すべきことについて書かれているのは、第69条にある「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したとき」だけなのです。ではどうやって国民の議会である衆議院を内閣が解散しているかというと、第七条三号に天皇の国事行為として衆議院の解散を定められており、第三条に天皇の国事行為に「内閣の助言と承認」が求められていることから、内閣は衆議院を解散できると「解釈」されているのです。内閣による自由な解散権を否定する考えからすれば、七条はあくまで儀式のことを定めたものということになります。

この憲政下60年余、幾度も69条によらない解散が行われてきました。今更この解釈を変えるのは難しいでしょうが、今回の解散は小選挙区制のデメリット濫用の点を見ても非常に不健全・不健康なものだと私は思います。内閣が好き勝手に衆議院を解散する権限はないとする学説に、やや同調したい気もします。



どのような選挙制度に取って代わられるべきか。私自身の中でもうまく定まってはいません。ただ、近年何かと話題の一票の格差問題に絡めば、全国一区の比例代表制にしてしまえば小選挙区制による党別の得票率と議席獲得率の歪み、投票先の制限問題、死票問題と合わせて一気に解決できます。ただし、各地方独自の争点を国政選挙に載せることが難しくなり、地方が蔑ろにされる可能性もはらみます。

もしくは旧中選挙区制、でしょうか。あるいは旧中選挙区制のような比較的大きめの区割りで比例代表制を行うべきだというアイディアもあります、これならば地方独自の争点を国政選挙に載せることが可能になります。ちなみに完全に比例代表制になってしまえばこれまた党内での政策論争や派閥争いに選挙は関与できなくなりますが、大政党を組織する理由も失われるので党内で非主流派となった派閥は党を割って出て行くでしょう、これこそ政党政治のあり方だと思いますが…。

いずれにしても、党別の得票率と議席獲得率の歪み、投票先の制限問題、死票問題は国民主権に対する重大な挑戦だと思います。もっと深く議論されないものでしょうか、議会でも、メディアでも、市民の間でも。

私は、日本には英国・米国のように他のことがどうでも良くなってしまうくらいの相容れない二大勢力の対立 (「二大政党」ではない、英米の二大政党は国内の二大勢力の対立がベース) がないのですから、無理に二大政党をつくろうとしても無駄というか、逆に変な歪みを強めてしまう可能性が高いと思います。比例代表制や、旧中選挙区制のような多くの人々の意見を取り込める方が民主主義の制度として元来健全だし、日本にもあっていると思います。

というか、小選挙区制はもはや違憲に近いと思います。我が国の憲法は民主主義を定めたものです。半数超の票を平然と死票にし、選挙結果を歪めることは民主主義に対する脅威です。伝統的に小選挙区制を取ってきた国、つまり英米にとってはそれこそが民主主義に適う事情があるのです。日本は違います。

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著作権保護期間延長に反対します

私は前から、著作権は一身専属権なのだから著作権は著作者の死と共に消滅するべきだ、一定の保護期間が必要なら発表時起算で28年とするべきだと訴えてきました。

MSフリーで行こう 著作権の死後保護期間を延長する必要ってあるの?
MSフリーで行こう 孤児作品というキーワード
MSフリーで行こう 海賊党への対案を考えてみた その1
MSフリーで行こう 俺が著作権の諸問題に興味を持つようになったキッカケ

著作権保護期間が著作者死後70年まで延長することが考えられているようですが、私は反対します。

すでに今だって長過ぎるんです。死後50年も経済的価値を持つ著作物などごくごく一部です。大作家の作品でさえ平然と絶版になりますし、米国では旧著作権法下、発表後28年、更新手続で更に28年の保護が得られるとされていた時代、その更新手続が取られたのはわずか15%だったそうです。そもそもどのような理屈で死後も人の経済的権利が存続できるのかもよく分かりません、人の権利は出生にはじまり死亡で終わるはずです。

それに、長くなればどこに権利が存在するのかわからなくなってしまうこともあります。テレビ番組探偵ナイトスクープで「シェラ・デ・コブレの幽霊」という映画が扱われたのを知っていますか?怖すぎてお蔵入りになったという伝説のある、その後ソフト化もされていない1960年代の幻の映画ですが。見たいという視聴者の依頼を受けて番組が調査し、フィルムは見つけることができたものの、権利の所在が不明で結局テレビ電波に載っけることはできなかったそうです。

こういう作品のことを「孤児作品」と呼ぶらしいのですが、それを増やすつもりですか?これは文化を守るのではなく、文化を破壊しています。

ところでプロフィール画像をつけました。これは1930年代の米国のアニメーション作品 Van Beuren's Tom and Jerry のエピソード Piano Tooners のスクリーンショットです。パブリックドメインです。なんですか? 何か問題でも?米国のテレビ番組「怪しい伝説」でもこのワンシーンが使われていた記憶があります。

ヴァン・ビューレンのトムとジェリー - Wikipedia
ですから、パブリックドメインですってば。

Tom and Jerry - Piano Tooners
ここからbittorrentでダウンロードできますが、今だったらYoutubeあたりに上がっているでしょうね。そちらで見てもらったほうが早いでしょう。

テーマ : 著作権・特許権
ジャンル : 政治・経済

「明日、ママがいない」騒動に思う

騒動に思うところがあったという話。ドラマは見てないので、多分これからいい加減なことを言います。

なんつーのかな、「フィクション」だから、という声があるみたいで。これテレビ局が言っているのかな?だとしたら結構な問題だと思う。最近割と「社会派ドラマ」みたいなものが結構撮られていると思うんだけれど…このドラマもそういうものとして宣伝されていた記憶があるんだけれど…都合のいいときは社会派気取って、都合の悪いときはフィクションだと逃げてることになるよね。もしそうだとしたらもうテレビには社会派ドラマつくる資格はない、なんて思ってしまう。

それにフィクションとは言え、現代日本の、実在の児童福祉制度や施設をネタにしているのだろう。例えば「赤ちゃんポスト」。これは正式名称ではない、マスコミがつけた通称あるいは蔑称であるが、これが指し示すものは特定の病院の、特定の設備である。世の中にひとつしかない (このあたり、正直ドラマのつくりのずさんさを感じずにはいられない) 。

そして、それら児童福祉に関わる人々の劇中での描写が大きく事実と違い、悪辣な存在として描かれている、そうだ。ドラマを観ていないどころか児童福祉の現実も知らない俺は判断はできないけれど、でもそうやってネタにされたものに実際に関わる人は、それを侮辱と感じたり、面目を失うこともあるだろう。実在の物事をネタにするなら、全く起こりうることである。

だから彼らには、それに対して抗議し、弁明し、名誉を回復する機会は必要だ。放送が中止されるべきかどうかは俺にはわからないが、誤った情報がこれ以上流布されることを防ぐために放送を中止せよと申し入れるのも、全くありうることではあると思う。彼らのことを「モンスタークレーマー」と罵る向きがあるらしいが、それは間違っている。

「表現の自由」なんて声もあるみたいだが、官庁公署がこれの規制に乗り出したというわけじゃないし、やや的外れだと思う。

もちろんテレビ局や制作側に「養護施設の実態を暴く」みたいな目的があるなら、抗議に対しても堂々としているべきだ。もっともそういう目的があるなら、入念な取材の上、実際にあったことに則して描くべきだと思うけれど。もしそういう目的がなくて、逆境の中で逞しく育つ子どもたちを描く、みたいなありがちなお涙頂戴モノなら (俺はこういうの一種のエクスプロイテーション映画だと思うんだけれどそれはまあいいや) 、その「逆境」として実在の人やもの、制度を出すのは、地上波テレビというメディアとしては軽率じゃないか、って思う。

テーマ : テレビなんでも
ジャンル : テレビ・ラジオ

小選挙区制の廃止を求める

新年一発目から政治話になることをお許しください。一国民の声としてこういうものがあるとせめてネットに発したいのです。イデオロギーの話は極力避けますのでどうかご勘弁を。

で、まず結論から申しますと、小選挙区制廃止を求めるってことです。前からちょいちょい書いていたことですが、改めてまとめさせていただきます。新年一発目にこの記事を書きたかったのです。


その理由一。党別の得票率と議席獲得率の乖離が激しすぎる

例えば2012年の衆議院議員選挙では自民党が圧勝しました。小選挙区での政党別議席獲得率は、自民党はなんと79%にまでなり、対する民主党はたったの9%。しかーし。小選挙区での政党別得票率はといいますと、なんと自民43%に民主23%なのです。二倍にも満たない得票の違いが、九倍近くもの議席獲得数の違いを産んだのです。

またその前の回の2009年の選挙においても同様のことがありました。民主党が当時政権与党であった自民党の議席獲得率21.3%に対して73.7%の議席を獲得して圧勝した選挙でしたが、これも政党別得票率で見れば自民38.6%に対する民主47.4%という、そこまで大規模な差ではなかったのです。

国民の投票行動と各党の議席獲得率がこれほどまでに乖離する選挙は、国会議員選挙としてふさわしいものでしょうか?いや、選挙として正しい姿でしょうか。


理由その二。死票が多すぎる

なんと2012年の選挙では、死票率が53%にもなりました。つまり、有効な投票のうち53%は議席に反映されず、言ってしまえば捨てられたということです (投票率が悪いってことじゃないですよ、念の為) 。単純に、単純にこの53%という数字を考えてみれば、制度だけ変えて票を数えなおしてみれば与野党が逆転さえしうるってことです。過半数なわけですから。

まあもちろん小選挙区制だってデタラメにやっているわけじゃないんだから議席獲得数における第一党がひっくり返ることは現実にはないでしょうが、総投票のうち過半数を捨ててしまうのはさすがに異常です。ちなみにこれは今回たまたまではなく、小選挙区制であれば制度的にありうることです。3人立てば死票50%超えることは普通に考えられます。が、別にこれ一枠を争う首長選・代表選じゃないんですよ、それでさえ最多得票が過半数でないときは決選投票にすることもあるのに。

少数意見の切り捨てと集約、とはよく言われることですが、過半数も捨てといて少数扱いはいくら何でも乱暴すぎるかと。ちなみに学を修めるのは大変なことです。ある分野の専門家、となれば常に少数です。お忘れなきよう。


理由三。投票先が限られてしまう

例えば。俺の生まれた街では、大抵の場合小選挙区では自民の候補者と、民主の候補者が立てられるだけです。そこに時々共産が立てられる程度でしょうか。東京に住んでいれば各党候補者勢揃いと言った感じですが、地方はそんなもんです。俺が自民民主あるいは共産の支持者でないのなら (実際ないのですが) 、どこの政党に投票したらいいのでしょう。これは地方に住んでいる人にとっては、事実上の選挙の制限になってしまっています。


理由四。党内派閥争いに選挙が関与できない

死票が多く、投票先も限られてしまうことで大政党が有利な小選挙区制ですが、そういった大政党につきものなのが派閥争い。それが党の政策方針に大きく影響するので国民の関心事ですが、この派閥争いに小選挙区制選挙は関与できません。

なぜなら、各党一選挙区に一人しか候補を立てないからです。国民は派閥云々ではなく党に投票します。ここで旧中選挙区制のように多数の候補を立てるものなら、国民も「この人はこの党の何派だから…」と考えて投票できますが、小選挙区で一選挙区に多数の候補者を立てる政党があったらそれはただの馬鹿です。ちなみに比例代表制でも派閥によって人を選ぶことはできませんが、大政党であるメリットもないわけで、派閥対立をしながら一つの党に収まっているなんてことも減るんじゃないかと。


理由五。有力議員のイエスマンばかりの国会となる

「有力議員」という言葉が新聞等でも平然と使われる昨今ですが、この言葉、おかしいと思いませんか?国民はみな平等です。ですから各選挙区も平等です。ですから、議席に優劣がつくわけではないのです。まあ政策能力や人望・経験で力の差が出るのは仕方がないですが、小選挙区制はその差を理不尽に増長させているように俺には見えます。

というのも、小選挙区制の選挙で勝つためには、大政党からの公認を得ることが非常に重要だからです。所属政党から公認を外され対立候補を立てられてしまえば、政党票がそちらに流れてしまうため勝つことが難しくなります。それ故、一部の有力者以外は党に対して意見が言えなくなり、結果イエスマンだらけになってしまいます。2005年の選挙で「刺客」「小泉チルドレン」だなどマスコミが囃し立てていたアレです。これでは有力議員はますます増長するばかり。それに人が育ちません。


理由その六。意義が失われている

そもそも小選挙区制は、大政党に権力を集中させ安定政権を作るとして導入されたものです。これにより与党が強くなるのはもちろんですが、その批判票も集中することで野党も政権交代可能な勢力となって、定期的に政権交代が起こって民主主義として理想状態が築かれる…こういうメリットが喧伝されていました。

実際はどうでしょうか?自民党は小泉時代はともかく、その後は衆議院で圧倒的多数を持っていたにも関わらずフラフラして、一種棚ぼた式に民主党が勝ったように俺には見えました。そして圧倒的多数となった民主党は同じくフラフラしてこのザマです。議席の数と安定政権は直接は結びつかないことはこれを見れば明らかです。

というか俺が思うに、二大政党というのは議席の数ではないのです。文化です。例えば英国は、労働者階級と貴族や資本家の分離・対立が、歴史的に根深くあるのです。米国なんかもっとわかりやすく、党が国を割って戦争までしているのです。今でも市民のコミュニティまで民主と共和で分化されていると聞きますし、共和党の強いテキサスなんかではオバマ民主党政権からの独立を求める声があがっているという話は皆さんもニュースで聞いたかと思います。

日本は運がいいというべきか、国内に絶対に相容れない深刻な二項対立はないのですから、二大政党が根づくはずはないのです。逆に英米にはそれがふさわしい、というかそれこそが国を治める方法なのです。日本でそれを真似しても、他のものはどうでも良くなってしまうくらいの対立構造がないのですから、与党はフラフラになり、それが政権という旗印を失おうものなら直ちに崩壊の危機です。民主党が今それですが、自民党だってあれは持ちこたえた方です。民主党政権がもうちょっとまともだったら今日はなかったでしょう。過去には新進党という例もありました。日本のような国においては、小選挙区制で「理想的な」政権交代はむしろ遠のくと言っていいと思います。



以上より、俺は小選挙区制の廃止を強く求めます。

代わりにどのような選挙制度が良いか。難しいところですが、全国一区の比例代表制にしてしまえば、上に挙げた政党別得票率と議席獲得率の乖離問題、死票問題、投票先問題、そして近年何かと話題の一票の格差問題が一気に解決できます。

選挙が議員個々人から政党のものに完全に移ってしまうことで、有力議員問題はより根深くなる可能性もありますが、既に書いたとおり大政党を離脱することが小選挙区制と違って深刻な問題ではないという利点もあります。あと政党助成金は廃止にして、お金が必要だというならその分を議員の歳費に乗っけたらいいんじゃないですかね。そうすれば有力議員問題はかなり軽くなるかと。

旧中選挙区制は選挙における議員個々人の負担が、ここまでで挙がった制度のうち最も大きくなってしまうという問題もありまして。議員が任期中最も心血を注ぐ仕事が、次の選挙で投票してもらうための地廻りだと言われるくらいで、それが良いことだとは思えません。政治とカネ問題の温床として廃止されたものだとも聞きます。選挙というのは人を選ぶものだろうとは思いますが、国政において一人の人間がなしうることなんて微々たるものですし…かつては我田引鉄などと言われたようですが、せいぜい地元にカネ引っ張ってくるくらい…橋下大阪市長が中選挙区制を求める声に対して「国政選挙は政党本位であるべきだ」と言っていた記憶がありますが、そのとおりだとも思います。じゃあ、小選挙区制よりも更に政党本位に特化した比例代表制がベターなんじゃないでしょうか。

完璧な選挙制度などないんでしょうけれど、小選挙区制はデメリットばかりでメリットも吹っ飛んでいることは明らかなので、廃止にしましょうよ。だいたい、多数決が原則なら、死票が過半数出て当然の制度なんて自己矛盾ですよ。


参考リンク
自民、得票率43%でも圧勝 乱戦が後押し  :日本経済新聞
上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場 : 民意を歪める小選挙区制はやはり廃止するしかない!

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