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同性愛は異常か

同性愛は異常生物だ、というツイートをした市議がいた。今回はこれについて書きたい。ブログのテーマと関係なくて申し訳ない、でもネット上の気になった情報をまとめるのが本来のブログの使い方だとも聞くので…。

まあ、異性愛を正常とすれば、同性愛はその反対で異常、ってことになるのかも知れない。

ただ、例のツイッター市議の異常・正常論の理屈は間違っている。間違った理屈でもって、異常正常を語るのは間違っているし、それでもって自分を正常に、相手を異常に置くのはもはや暴力である。正、不正という言葉にはそれほどの強い力がある。

彼は同性愛者を「生物の根底を変える異常動物」と言った。

でもさ、言わせて欲しい。人間の性に関することは、動物の性から見て正常なことの方が珍しいんじゃないのか?

例えば、人間は自分の意思で子を持たないことを選択することのある動物だ。避妊して性行為をすることもある。あるいは自慰もする。どれも動物的なくくりで見ると珍しいことだ。

たまにこういう奴がいる。同性愛は子孫繁栄に与しない、と。特に全体主義者、個々人の幸福は蔑ろにしてでも国家を強くするべきだという論調の者によく見られる理屈だ。たぶん彼の言いたいこともそういうことだろう。その理屈はその理屈で結構だ、しかし、そうだったら自らの意思で子を持たないことを選択する者、避妊、自慰も等しく糾弾するべきなのでは?あるいは病などで子供が作れない体になってしまう人もいるだろう。そういう人はどうすればいいのか?性が生物の根底なら、これだって生物の根底を変えるものだ。

もうひとつ言ってしまえば、結婚、特に一夫一婦制も動物的に見れば不健全な行為だと思う。色々な人で交わった方が、遺伝的には多様性が出て生存に有利なのではないか。大抵の生物は皆そうしている。鳥の中にはつがいを作るものがあるが、生涯に渡った一夫一婦制というわけではないし、彼らには貞操の義務のようなものはない。つがいはあくまで子育てに都合がいいから、ということのようで、実際にDNAを調べてみると育てられている雛は必ずしもつがいの子というわけでもないと聞く。DNA的な多様性がないと、何かの疫病なんかが流行った時、あっという間に全滅してしまう。それもまた彼の言う破滅ではないのか。

だから、僕は動物的な視点から人間の同性愛を異常と呼ぶのは非常にダブルスタンダード・恣意的だと思う。おそらく本人も論理の破綻はなんとなくわかっているだろう、わかっていなければ馬鹿だ。それを無理やりゴリ押しで正当化し、相手に異常者のレッテルを貼るのは、卑怯だしさっきも言ったとおり暴力的だ。



僕が思うのは、あなたが異性愛者なら同性愛者の気持ちもわかるだろう、ってことだ。あなたがゲイになれ、と言われてもそれは無理だろう。僕にもたぶん無理だ、少なくとも女性を愛することを捨てることはできない。

同性愛宣伝がいけないことだ、という奴がいる。つまり、人を同性愛に引きずり込むような、目覚めさせるような行為をするべきではないと。ロシアとかがそういう政策をとっていた。ツイッター市議のツイートにもメディアがそれを報じるべきではない、というような言葉があったので彼にそういう意図もあったと思う。しかし、ではそういう宣伝に接したらあなたは同性愛者になるのか?ならないだろう?つまりならない人はならないのだ。だからそれは心配するべきことではない。

確かに同性愛者の話を聞くと大抵、これまでの人生の途中あるところで自分が同性愛者であると気づいた、なんて言われる。でもそれは、異性愛者から同性愛者へと転換したという話ではない。異性に対する恋愛感情・性的感情を覚えず、異性愛を標準とする世間一般に自分がゲイと認識する前から違和感を覚えていたという場合がほとんどだ。つまり、無意識レベルですでに同性愛者である人が、自身の性指向に気づくかどうか、だ。

気づかせないのが正しいのか。僕はそうは思わない。自分の性に違和感を覚えながら、でもゲイという物事の存在を知らずあるいはゲイが認められない世界で、世間一般がそうするように異性と結婚でもしてしまったとしようか。それは悲劇でしかない。ゲイの本人は置いておいても、引き合わされた異性愛者がたまったもんじゃないだろう。実は愛していないってんだから。つまり、ゲイがゲイであると認められる社会は、異性愛者の幸せにも繋がる。だからメディアでゲイが取りあげられるのは何も僕は問題だと思わない。自分の性に悩むゲイの人が、ゲイというものの存在を認識し、自分はそうなんだ、それでいいんだと気づく、そのきっかけをメディアがもたらしているのだ。大いに結構じゃないか。



なんていうのかな、さっき全体主義の理屈はそれはそれで結構とは言ったけれど。俺が思うに、だけれど、全体主義ってのは原則と例外、目的と手段を取り違えていると思う。僕が思うに、共同体は大事だ。よく個人主義者は共同体を蔑ろにするものだと思われがちだが、それは誤解だ。共同体を蔑ろにする個人主義者なんてゴルゴ13くらいのものだ。人間は皆共同体に寄り添って生きている。でもその共同体は何のためにあるのか。というか、人間は何が目的で共同体を形成するのか。それは、個々人がよりよく生きるためではないのか?

自己犠牲というものもあるが、自己犠牲は目的ではないはず。自己犠牲は、共同体に所属する他の誰かを幸せにするための手段であるはずだ。それに、他者から、共同体からそれを強要された時点でそれは「自己」犠牲ではない。単なる犠牲である。自己犠牲というのは個人主義においてのみ存在する。

それはともかく、人間は「こうあるべき」というものがあって人間になったわけじゃないと思う。これは性に限ったことはではない。人間社会は不合理と非生産性、そしてそれの再考察の積み重ねで成り立っている。少なくとも動物的行動原理とは違うところで成り立っているところがたくさんある。「吾輩は猫である」ではないが、動物から見れば人間そのものが異常だ。人間は、こうあるべきだとする完璧な模範を持っていない。持っていないからこそここまでの世界を作り上げられたと僕は思う。それをパターナリスティックに上から決めつけ、何かを異常、正常と決めつけるのは間違っている。それぞれが、自分が正しいと思う方向に進めばいい。それが道になると思う。同性愛者は同性愛者であればいいし、異性愛者は異性愛者であればいいと思う。


補足

「正常、異常って何ですか」 海老名市議の差別的ツイッターに同性愛者|カナロコ|神奈川新聞ニュース
このような記事を見つけた。この記事の、ここが気になった。

「同性愛を異常と思う自分は、差別主義者と思われる」という恐怖を覚える

僕はここで同性愛差別に対する反対を表明したけれど、それは「同性愛を異常と思う」人を差別主義者だとレッテルを貼る意図ではない (と同時に、そう思われかねないポイントを修正) 。僕が思うに、だけれど、例えば多くの人が性的にクリティカルなことを突かれれば多少なりとも嫌悪感を催すように、異性愛者が同性愛に嫌悪感を覚えることはいけないことではないと思う。ただ、同性愛者は自分がそうなりたくてそうなったのではない。我々が異性を好きになることに理由があるだろうか。当人に咎のないことを、声高に非難するべきではない。それは肌の色みたいなもので、典型的な差別そのものだ。

それを相手を貶める意図で無茶な理論武装で正当化するのは更に間違っていると思う。差別を正当化する無茶な理論武装っていうのは今までも山のようにあった、やれ女は天地創造の6日間に作られたものでないだの、アダムとイブは白人であり黒人は人ではないだの。こういうのを幸運にも歴史から学べる我々は繰り返すべきじゃない。歴史は野蛮な動物には学べないことだが、我々は文明人だ。

嫌悪感をもつものを受け入れるのは難しいかも知れない。しかし、受け入れると言ってもあなたに同性愛者になれだの、あるいはその性の相手をしろと言うわけではない。我々が異性とは言ってもやりたくない相手とやらなくていいのと同じだ。だから、その存在をそのものを否定・非難するのは間違っていると思う。

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